標題と背景(Litaniae de venerabili altaris Sacramento)

 まず標題についての解説。知っている人には、当たり前過ぎる内容であるが、そうでない人も少なくないだろうし、標題が理解できないと歌詞も理解できないので、敢えて書くことにする。

 ただ筆者は、以下の思想を受け入れているわけではない。宗教曲を解釈するために、ある程度、キリスト教について予備知識を仕入れなくてはならないから、書いているに過ぎない。

 さて、この曲の標題、日本語では「聖体連祷」などと簡潔に訳されるが、実際にCDや楽譜などに見られるラテン語の標題は、かなり長ったらしい。

 "Litaniae de venerabili altaris Sacramento"
  尊き「聖体拝領台の秘跡」のための連祷

意味品詞変化形辞書掲載形
Litaniae連祷(れんとう)名詞1女複主litania
de〜のための前置詞  
venerabili尊き形容詞3中単奪venerabilium
altaris聖体拝領台の名詞3中単属altar
Sacramento秘跡名詞2中単奪sacramentum

※ 形容詞"venerabili"「尊き」がかかる先は、"Sacramento"「秘跡」である。性数格が一致するからである。


「リタニア(連祷)」について

 リタニアとは、「連祷」のことであるが、これは何をさすのだろうか。筆者が学生の時、生協の販売員に言いくるめられ、5万円も出して購入した、全6巻からなる『音楽大事典』(平凡社)より引用しよう。

【リタニア】
 キリスト教の祈願の一形式。カトリックでは「連願」「連祷」など、聖公会では「嘆願」などともいう。先唱者が祈りの意向を簡潔にひとつひとつ唱え、一同が嘆願の定句を繰り返して唱えるもので、一定の抑揚をもった短い唱え言の絶えざる反復といった観を呈する。[引用終]

 要するに、モーツァルトK.243に見る如く、「○○よ、我らを憐れみたまえ(miserere nobis)」を延々と繰り返す形式の祈りが、「リタニア」である。別の曲では、「○○よ、我らのために祈りたまえ(ora pro nobis)」なんてのもある。

 「○○よ」の部分は司祭が一人で、「我らを憐れみたまえ」は会衆全員で唱えるのが元々なのだろうが、モーツァルトは、その形式にはこだわっていない。

 ちなみに、一般にリタニアは「リタニア」と呼ばれるが、標題のラテン語をよく見ると、"Litaniae"「リタニエ」と、複数形になっている。祈りの中で、非常に多くの文句が繰り返されるためだろう。


「秘跡(サクラメント)」

 通常、人間は、神を見たり、神に触れたりすることができない。でも、神からの恵みを受けることは出来る。例えていうならば、電子は目に見えないけれども、電球を光らせたり、モーターを動かしたり、といった恩恵を受けることができるのと似ている。

 ただ、無条件に、ではない。もし、電子から恩恵を受けようとしたら、電極をつなげて電流が流れるルートを作る手続きが必要である。同様に、神からの恩恵を受けるためにとり行う儀式が「秘跡」である。「秘跡」を行うことによって、信徒が神から恩恵を受けるルートが確保されるのである。

 「秘跡」として扱われる儀式にはいくつかの種類があるが、カトリックでは、以下の7つが、秘跡に指定されている。

  ・洗礼  ・堅信  ・聖体  ・告解  ・叙階  ・結婚  ・終油(病者の塗油)

 「洗礼」や「結婚」は説明するまでも無かろう。「告解」は、罪を犯してしまった人が神に赦しを乞う儀式のこと(不謹慎だが、「おれたちひょうきん族」の、あのコーナーを思い出してしまう…)。「聖体」は次の項目で説明。「終油」はViaticumの項で説明。他の説明は省略。


「聖体拝領台」

 聖体拝領を行うための台のこと。

 ……ではあるが、それでは「聖体拝領」とは一体何?

 「聖体拝領」の漢字を分析すると、聖体(=キリストの体)を、拝領(=頂戴)する、となり、司祭や信徒が、キリストの肉体を自らの身体の中に取り込むことをいう。そして、聖体拝領を行うことを主目的とした秘跡が、「聖体拝領台の秘跡」→「聖体の秘跡」、すなわち「ミサ」である。洗礼や結婚は、人生の特別な節目にだけ行われるが、聖体の秘跡には、毎週でも参加できる。

 当たり前だが、彼らは、ミサの場で本当にキリストの肉を食べているわけではない。実際に食べているのは「パン」であり、時には「ぶどう酒」も飲む。

 パンはキリストの肉を、ぶどう酒はキリストの血を象徴している。いや単なる象徴ではなく、然るべき手続きを行うことにより、キリストの肉体そのもの、あるいは血そのものに変化するそうである(聖変化)。このように聖変化を遂げた(とされた)パンやぶどう酒を口にすることで、「聖体」を「拝領」するのである。

 ……ということであるが、考えてみれば、人が人の肉を食らい、血を飲むという行動は、(それがいくら象徴的なものだとはいえ)かなり奇妙なものである。聖体拝領は、一体どういう思想に基いてなされているのだろうか。

 ここで、「聖体の秘跡」の起源について触れなくてはいけない。出典は新約聖書の福音書である。

 処女マリアから生まれて以降、様々な奇跡を起こし、憐れな人々を救ってきたキリスト。しかし、彼の言動は、かなり過激なものであり(…と筆者は思う)、結果、世間から迫害されるに至る。逮捕間近いある夕方、キリストは十二人の使徒と夕食を共にする機会があった(最後の晩餐)。

>彼ら食しをる時、イエス、パンをとり、祝して言ひ給ふ。「取りて食らへ、これは我が体なり」。また酒杯をとりて謝し、彼らに与へて言ひ給ふ。「なんぢら皆この杯より飲め。これは契約のわが血なり、多くの人のために、罪の赦を得させんとて流す所のものなり。」
[マタイ福音書26-26〜28]

>またパンを取りてさき、弟子たちに与へて言ひ給ふ。「これは汝らの為に与ふる我が体なり。我が記念として之を行へ」。夕餐(ゆうげ)ののち酒杯をも然して言ひ給ふ。「この酒杯は、汝らの為に流す我が血によりて立つる新しき契約なり。」
[ルカ福音書22-19〜20]

 要するに、この「最後の晩餐」で行われたパンと杯のやりとりを記念し再現しているのが、「聖体の秘跡」なのであるが、単純に、お別れのお食事会を祝福しているわけではない。大切なのは、ここでキリストにより示された「契約」のほうである。

  1. 契約対象は神。
  2. イエス・キリストは、自らの肉体と血を捧げることで、人類が受けるべき罰を代わりに受けます。
  3. その代わり、人々の負っている罪を赦し、苦しみから解放してやってください。

 実際その後、上記の2番は遂行され、キリストは、十字架にかけられる。よって、3番により、人類の罪も赦されたことになる。

 ということであるが、人類の「罪」とは具体的には何を指すのか。何故そこまで、罪が強調されなければならないのか。

 実は、天地創造から間もない頃、アダムとイブがエデンにいた時は、まだ罪深くなかった。しかし彼らは、蛇にそそのかされ、神からの言いつけを守らずに、「善悪の知識の実」を食べてしまう。たかが人間風情が、神の如く、善悪を知ろう、とは何たる思い上がり! これが人類最初の罪である(原罪)。

 二人は、罰としてエデンから追われ、アダムは食糧を得るための労苦、イブは妊娠の苦痛を与えられる。いやそれだけではない。もともと予定されていなかった「死」という宿命まで背負わされる羽目になる。

 この時の罪は非常に根深かかった。アダムとイブが一代で赦されるようなものでは到底なく、以降の全人類にまで引き継がれることになってしまう。だから人間は生まれながらにして罪深く、その後ずーっと、死への恐怖に、脅え、苦しまなければならないのである。

 しかし幸いなことに、この根深い罪は、キリストが十字架にかかることにより、肩代わりしてもらえた。既に救いはもたらされている。具体的にはどういうことか。

>然れど今は罪より解き放されて神の僕となりたれば、清きにいたる実を得たり、その果ては永遠(とこしへ)の命なり。それ罪の払ふ値は死なり、然れど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠の生命なり。
[ロマ人への書6-22]

 これによれば、人類は、原罪以降の宿命であった「死」からは解放され、「永遠の生命」を獲得したのである。もちろん、現世においては一旦死んでしまうが、「終の日」にはきちんと甦える。その時、「神の国」の住民に抜擢されるので、以降は永遠に平安に暮らせる。現世における死が「神の国」への一里塚だと思えば、そんなにはつらくない。

 しかし、「永遠の生命」は無条件に与えられるわけではない。話はそう甘くなかった。

>イエス言ひ給ふ「(中略)我が肉をくらひ、我が血をのむ者は、永遠(とこしへ)の生命をもつ、われ終の日にこれを甦へらすべし。」
[ヨハネ福音書6-53〜54]

 やはり、ちゃんと神を信仰し、そのしるしとして、キリストの肉体なるパンを食らい、血なるぶどう酒を飲むことが必要ということである。それを怠ると、最後の審判で有罪判決をくらってしまい、「神の国」どころか、地獄に落とされてしまうのである。

 まあ、そうならないように、聖体拝領は、この二千年もの間、世界の色んな場所で、毎日毎日、行われてきた。もっとも、その「終の日」というのが、何年何月何日何曜日何時何分何秒、地球が何回回った時なのかは、誰も知らない。

 参考:聖体拝領シーンの画像集

 参考:聖体拝領台の画像集

 参考:ユダは裏切り者じゃない?「ユダの福音書」写本と確認



さて…

 もう一度、標題に戻る。

 "Litaniae de venerabili altaris Sacramento"
  尊き「聖体拝領台の秘跡」のための連祷

 上述の通り、「聖体拝領台の秘跡」とは、「聖体の秘跡」、つまり「ミサ」を指す。ただ、通常のミサ曲の歌詞は、神を称えるフレーズが中心であり、聖体拝領については、あまり出てこない。

 しかし、この曲は違う。聖体拝領そのものが中心テーマである。連祷なので、「○○、miserere nobis」というパターンを延々と繰り返していくわけだが、この「○○」という部分は、ほとんど聖体拝領に関する事物で埋め尽くされている。例えば、"panis"という語が多く出てくるが、これは、「パン」のことである。







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